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大橋 薫(おおはし かおる、1922年(大正11年)4月29日 – ) は、日本の社会学者。 社会病理学、都市社会学を主たる専門とする明治学院大学教授、同名誉教授である。明治学院大学社会学部長、日本社会病理学会、家族問題研究会の各会長などを歴任。 == 来歴 == ;研究者として 社会病理学では社会解体論的、社会偏倚論的方針に立脚し〔大藪寿一(大阪市立大学助教授、のち教授)『大橋薫著 都市の下層社会』(社会学評論、掲載巻13掲載号4)〕〔*>理論的に社会解体論に拠っていることは桑畑勇吉奈良女子大学教授も『書評 大橋薫著「都市病理の構造」』で指摘している。〕、家族病理、社会病理の視点から研究を行う。また都市社会学においてはシカゴ学派の影響を受ける。研究対象は家族、アルコール中毒、被差別部落、売春婦、やくざ〔『大橋教授退任記念論文集』福田垂穂(明治学院教授)「大橋薫先生を送る」〕など多岐にわたり、高知市や大阪市で行った調査活動への評価は高い〔桑畑勇吉(奈良女子大教授)『書評 大橋薫著「都市病理の構造」』(社会学評論、掲載巻24掲載号4)〕。一方その社会病理学の方法については、学問領域としての社会病理学それ自体と併せて批判もある。 ;経歴 福島県田島町出身で、会津中学、浦和高校を経て1942年(昭和17年)に東京帝大へ進む。翌年に学徒出陣し、石垣島で終戦を迎える。階級は陸軍少尉。 復学後東京大学文学部、同大学院で社会学を専攻し、大学院退学後大阪市立大学に講師として採用され、家政学部助教授に進む。明治学院大学の社会福祉学系大学院開設に際して招聘を受け〔『大橋薫教授退任記念論文集』渡辺栄(明治学院教授)「大橋先生のこと」〕、文学部助教授、教授を経て1966年(昭和41年)に社会学部教授となる。担当は社会病理学。大学闘争(大学紛争)時には学部長として事態収拾に努める。研究者生活の晩年は聖徳大学設置準備委員を経て同教授。講義を行った大学、短大は東京大学、大阪大学、東北大学ほか30以上を数える。 学会では 日本社会病理学会、家族問題研究会の各会長のほか、 日本社会学会、日本都市学会、日本教育社会学会、日本犯罪社会学会、自殺予防学会などで理事、評議員〔『大橋薫教授退任記念論文集』「学会活動」〕を、政府組織にあっては、総理府同和対策審議会、文部省学術審議会、法務省矯正保護審議会の各専門委員、委員を歴任。地方自治体では東京都、茨城県、山梨県、尼崎市、川崎市などで社会福祉委員会、同和対策審議会などの委員であった〔『大橋薫教授退任記念論文集』「社会活動」〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大橋薫 (社会学者)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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